| 首都グレッグミンスターのあるここ、アールスの地を抜ける為 アールス地方とゴウラン地方を分けるクワバの砦へと向かい始めて、二日が経とうとしていた。
深い黒を塗り替えるように、焚き火が辺りをささやかに照らすそこで 遅い夕食を終えた彼等は、明日も朝から歩くため早めの就寝を迎えようとしていた。 「昨日も言ったけど、一応言っておくぞ」 簡単な夕食の片づけをしながら、グレミオの言った言葉にビクトールは 自分でも『一応』と付けたくらい、『一応』前置きをしたが 「坊ちゃんに火の番はさせません」 物申す前に間髪入れず返ってきた言葉は、自分の方さえ向かずに発せられた。 「ヒイキだ!!」 「はっはっは、当然だ」 「当然なわけ有るか!」 既に寝る体勢のセイが、ドンドンと地面を叩いて喚くビクトールを一笑に付すれば 彼の矛先は当然自分へと向かってくるが、自身が言い返す間も無く。 「坊ちゃんは、睡眠時間が足りないと動かなくなるんです。だから眠って頂かないと駄目なんです……!」 マクドール家下男と云うよりも、セイの世話役として十年は生活を共にしてきたグレミオが打ち返してしまう。 実際、セイは有り得ないくらい寝汚いのだ。 睡眠途中で彼を起こした事のあるグレミオは 眠気が勝っていた為に手加減一切無しの本気(マジ)蹴りを頂いて腕の骨を折った事もあり それが、齢十になった頃の事で……。 最近では攻撃を受けないように気をつけながら起こしてはいるが、それで起きても動いてくれないのだからどうしようもない。 「おぼっちゃんめ……」 ビクトールも、そこまで真剣に語られてしまっては退くしかなく。 不承不承といった顔をすると、寝床に潜り込んで笑っているセイを睨みつけるだけで抑えておく事にした。
焚き火の燃える音、燃えた薪が爆ぜる音、風が木々を揺らす音。 眠った彼等から聞える穏やかな寝息は、そんな音に掻き消されそうなほど小さくて
不意に、怖くなったのだ。 焚き火が目の前で燃え上がる、闇に支配されたこの世界。 そんな世界に、自分しか居ないような気がして……。
「……起こしたか?」 ばつが悪そうに笑いながら、その人物を見てみれば 「暗い」 と呟いた彼は、寝ぼけていると云うには程遠い確りとした眼差しで自分を見返してくるので ビクトールは、彼なりに押えた声の大きさで笑った。 「そりゃ夜中だ。暗いに決まってる」 のそのそと四つん這いで寝床から出てくると、焚き火を挟んでビクトールの前にやってきたセイは その言葉を理解してないかの様に不思議そうな顔で彼を見て、一度首を傾げると 「……そういう事でも」 「ん?」 「ないんだけど…………まぁ、良いか」 ビクトールにはサッパリ分らないのだが。納得した様に頷いて、膝を抱く様にして座り込んだ。 「寝ろよ。明日歩かないとか、言い出されても困るんだからな」 「眠れなくてさ」 「じゃあ、火の番変わってくれ」 「それは遠慮しておこう」 「んだよ、そりゃあ……」 おどけた調子で笑うセイに、ビクトールも笑う。 さっきまでは、この世界にたった独りで居るような気がしていたくせに。 彼の姿を見ただけで一気に楽になってしまった自分に、現金なもんだと内心苦笑いを浮かべていたら 何故だかセイは、笑んで見える顔のまま、焚き火に釘付けになっていたので 「どうした」 さっき笑っていたと思ったら、急に焚き火をじっと眺めているのだ。どうしたと思うのは、至って普通だろう。 しかしセイはそんな彼に、表情を無くした顔を上げて 「焚き火。赤いなぁ、と思って」 と、全くもって見当のつけようがない事を言い放った。 以前から彼の思考の突飛さは散々味わっていたビクトールだが、返せる返事なんて大抵は決まっている。勿論今回も。 「そりゃ、まぁ……火だからなぁ」 相槌を打っているのかいないのか、よく分らない曖昧な言葉だけ。 しかしセイは、そんな返事にはめげる事もなく。人差し指を立てて、ぱっと無表情から笑顔に変えた。 「他に、何か赤いもの。あーるか」 「は?」 「火以外に赤いもの、何?」 「んだよ急に」 「眠気を誘発するための雑談。付き合って」 心中では、訳の分らない事になったと微妙に混乱しているビクトールだが セイは抱えていた膝を地面に下ろし、胡座をかいてニコニコと一人で楽しそうに。 「赤いものなぁ……リンゴ」 混乱しつつも付き合ってしまうのは、セイが何を考えているか分らない事もあるが この状況で会話を無くしたら、また思考が落ち込んでしまうような気がしたから。 そんな彼の心境を知ってか知らずか。正体不明の質問をした人物は、張り付いた様にも見える笑顔で。 「皮を剥いたら白い」 「じゃあ、柿」 「あれはどちらかと言うとオレンジだろ」 「そっかー? それじゃあ、サクランボ」 「食べ物ばっかりだなぁ」 全く変らない笑顔のまま、何か言うたびに打ち返されていると、流石に少々苛っとしてくるもので。 「じゃあ、お前だったら何があるよ」 不機嫌な顔を作って見れば、セイは少しだけ驚いた顔の後 それがわざとだと、直ぐに気が付いたのだろう。さっきとは少し違う、悪戯っ子の様な顔で笑った。 「僕? んー、そうだな。赤い屋根、赤い風船、赤い……」 「赤いって付けてるだけじゃねぇか!!」 「駄目とは言ってなーい」 「かわいくねぇ!」 「皆さんそう仰います」 楽しそうに笑うセイに、文句を言っている自身 彼はその整った綺麗な顔に似合わず、やる事成す事自分よりも豪胆で滅茶苦茶で、乗りもやたらと良いので こんな風に軽口を叩き合うのは今に始ったことではなく、出会った頃から何度となく繰り返している事だ。なのに 何故だか妙な違和感が付き纏う。 さっき一人でぼやっとしていた時よりも、今の方が心苦しい気がするのだ。
この闇はもう二度と、明ける事はないかもしれない。
しかしセイは、空気が読めないのかわざとなのか。 何が楽しいのか脳天気な声を上げて指をくるくる回しているから、そのまま陥りそうになる思考を続けられるわけもなく。 むしろ、それで救われてしまった感じもあるのだが。 ビクトールはもう一度不機嫌そうな顔を作り 「あ?」 不機嫌そうな声を上げてセイを見てみれば、彼はその声に指を止め可笑しそうに笑う。 「夕日は赤いな。太陽は白いけど」 「あぁ、まぁなぁ」 ぷかぷかと、この場の空気に浮いている。自分達の声とくだらない会話。 「花は、赤いものも多いよね」 「そうなのか?」 いつもなら楽しいだけのそれが、今は命綱の様に。 「ビクトールは花なんて知らないんだろうなーあ」 「うっせえなぁ! ちっとくらいなら知ってるっつーの!!」 セイは可笑しそうに笑ったままだが、ビクトールの方は必死でその声と言葉だけを辿っている。 「例えば?」 「たとえば……たと、えば、そうだな、えっと」 今、この会話が切れてしまったらきっと、自分は泣いてしまうだろう。 「思いつかないじゃないかやっぱり!」 「急に言われたから出てこねぇだけだ!!」 そんな風に、思うから。
今迄の会話の流れなどなかったかの様に、セイがその言葉を吐き出した。 いや、流れとしては『赤いものシリーズ』であり、ちゃんと会話は繋がっているのだが。 セイは相変わらずの笑顔で、何を考えているかはビクトールには全く分らないけれど 流れは確実に変わってしまったと、彼には思えた。
「……血は赤いもんだろうが」 やっとの思いでそれだけ言うと 焚き火を挟んで向かいに座る彼は調子も変えずに、笑んだまま。 「虫の血は緑だよ」 「虫に血はないだろ」 「潰したら体液が出るだろう。あれが血」 「赤くねぇぞ」 「血だって体液だ、言い方が違うだけでね。その中に含まれる成分が、人間は鉄で虫は銅なんだよ」 「はぁー? マジでか?」 「マジです 「へー」 「返事に愛想がない」 「頭がよろしいこって」 「ビクトールも本を読めば、これくらい直に言える様になるよ」 「なりたくねー」 何やら勉学じみた、雑談と言うには少々頭の痛くなる会話だ。 それでも、やはりこれはただの会話だったのだったと分って。ビクトールが一安心した、その時に
表情が曇ったと云う訳ではなく、文字通り翳ったのだ。 少し横を向いた彼の顔右半分が、闇に溶けた。
声の調子も、心なしかトーンが落ちている気はするが。まだ出逢って一ヶ月ほどだ、これも彼の一つの調子なのかもしれないと ビクトールは何にも気付いてない様な顔をして、言葉を返す。 「なんだ?」 「彼女も赤かったね」 「あ?」 「オデッサ」 こちらを向いて微笑んだ顔は 火の光を正面から浴びていると云うのに、そのまま闇と同化してしまいそうなほど暗い笑顔。 驚く程に色の見えない表情に、恐らく自分も同じ様な顔をしているのだろう。とビクトールは思った。 同じだったのだ、考えていた事が。
「服もだけど、中身も」 「は……?」 「心が、燃えてる様な人だったじゃないか」 「あぁ……まぁ、熱い奴だったな……」 思い出した光景を振り払う様に。
ビクトールは明後日の方を向いて、気のない返事をする。 これ以上、彼女の話は続けたくない。確りと思い出せば、楽しい想い出も沢山あるはずなのに。今は、あの 血溜まりに横たわる彼女の姿しか、思い出せないから。 自分の記憶の中でだけとは云え、何度も何度も彼女が死んでいくのは見たくもないのだ。
会話を切ろう。そう思い、意を決してセイの方を見れば 「ほら、設計図をサラディへ持って行った時」 最初に座っていた時の様に膝を抱えて、そこに顔を埋めるような形で俯いている姿。 「オデッサと、ゆっくり話をしたんだ」 「……そっか……」 表情は暗い、が笑っているわけじゃない。その事が、何故だか随分とビクトールを安心させた。 ぽつりと落された言葉は、自分の中にじんわりと波紋を作っているのだけれど。今の自分には似合いな気がして。 どこに向かって発したかも分らない相槌を打てば、セイもこちらを向く事無く少しだけ頷いた。 「話してみて、少しだけ分った」 「何をだ」 「彼女の弱さ」 意識して聞こうと思わなければいけないくらい小さな声なのに、彼の声はやけに耳に届く。 薪が焚き火の中で発てる音よりも小さいくせに、一言一句はっきりと聞える声。 「初めて会った時の、笑った顔があまりにも綺麗だったから……彼女は、無条件で強い人なんだと思ったんだ」 声は、空気を振動させて伝わるもの。 「責任感決断力に優れ、頭も良い。人の心を纏められるだけの優しさがありながら、上に立つ者としての厳しい目をもっている そんな話を、ビクトールは昔誰かに聞いたが 「でも、違ったんだ」 この声は、空気を振動させて伝わるものじゃない。 「彼女は完璧な指導者なんかじゃなかった」 空気そのものだ。 「凭れられるばかりじゃ、折れてしまう。求められるばかりでは、枯れてしまう……彼女は、人間だから」 何処にあっても自然で、なのにハッキリとその場に存在を示す。 「この人のためになるなら、自分を懸けるだけの価値はあるんだって、素直に思えて……」 空気の様に。 「……守りたいって、心底思ったんだ」 吸い込むと肺一杯に染み込んで、中から突き刺してくる。 そんな訳はないのに、血を吐いてしまうんじゃないかと。ビクトールは思わず、薪に伸ばしていた手を口に持ってきた。 手の平で口を抑え、少し咳き込む。手の平には、当然ながら血の痕はない。 「好き……だったのか」 殆ど独り言の様に呟いて、手の平から目の前に座るセイに視線をやった。 彼の顔を見てみたいと思ったからだ。 笑っていても、泣いていても。今の彼ならばきっと、今まで以上に分かる事が出来ると思ったから。
焚き火の向うにある顔は、笑っても泣いてもいなくて 「好きなんだ、今でも」 あらぬ虚空を見ていた視線が、ビクトールの視線と交差する。 「今も僕は、彼女を愛してる」 そう言って笑おうとするセイの顔は、直ぐにでも泣き出しそうに歪んで 何も言えないビクトールを視界から外す様に、逃げる様に空を仰いだ。
じわりじわりとその身を侵し、心を蝕んで。
今の空気に適わない楽しそうな声と、伸ばされた指先を追って彼と同じ様にビクトールは空を見上げた。 「……あぁ、綺麗だな」 その目に飛び込んできたのは
05/04/02 |